遣唐使は 《歴史・学問・留学》
7世紀から9世紀にかけて日本から唐に派遣された公式の使節。
630年8月に犬上御田鍬を派遣したのを最初とし、894年に菅原道真の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いもさることながら、円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、糒と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあった。
また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかった。
たとえば753年11月、藤原清河、阿倍仲麻呂らを乗せ、蘇州から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風にあい、南方へ流され安南に漂着した。
結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。
このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐したわけであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。
これは、日本の古代国家を形成するうえで唐帝国の国制を模倣しようとしたためにほかならない。
とくに文化面でも、同行した留学生、学問僧らによる先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。
奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。
とくに当時の日本の外交は、新羅との頻繁な交渉とともに、東アジアの国際社会で日本の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗属関係を唐に承認させる必要があった。
このことは『続日本紀』天平勝宝6年条に記されている753年正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの一件に現れている。
当日、諸蕃の席次で日本を西畔第二吐蕃の下に置き、新羅を東畔第一大食国の上に置いたので、副使大伴古麻呂が抗議をし、双方の順位を入れ替えさせたのである。
630年8月に犬上御田鍬を派遣したのを最初とし、894年に菅原道真の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いもさることながら、円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、糒と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあった。
また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかった。
たとえば753年11月、藤原清河、阿倍仲麻呂らを乗せ、蘇州から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風にあい、南方へ流され安南に漂着した。
結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。
このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐したわけであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。
これは、日本の古代国家を形成するうえで唐帝国の国制を模倣しようとしたためにほかならない。
とくに文化面でも、同行した留学生、学問僧らによる先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。
奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。
とくに当時の日本の外交は、新羅との頻繁な交渉とともに、東アジアの国際社会で日本の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗属関係を唐に承認させる必要があった。
このことは『続日本紀』天平勝宝6年条に記されている753年正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの一件に現れている。
当日、諸蕃の席次で日本を西畔第二吐蕃の下に置き、新羅を東畔第一大食国の上に置いたので、副使大伴古麻呂が抗議をし、双方の順位を入れ替えさせたのである。
update:2010年03月16日
